sigurros’s blog

印象に残った音楽や文学に対する雑感

芸人と俳人 又吉直樹 堀本裕樹

又吉さんへの興味で買ったが、本格的な俳句入門書としても読める。現役の俳人が素人に俳句の魅力を説明する、というだけなら説明的なものになりがちだろうが、俳句は完全な素人ながら現役の芸人で文章家でもあり、当然言葉に敏感な又吉さんを生徒役に起用したことが功を奏している。

夏の魔物 ROVO 2018 9/1

反復するビートによる狂騒のトランスミュージック。ニーチェが言うところのディオニュソス的な芸術にあたるやつ。せっかくなので瞑想状態に近いくらい深く集中して聴いてみようと、目を閉じて、雑多な思考を追いやり、図形的イメージで頭をいっぱいにしてみた。渦巻きに少しずつ全てが吸い込まれていくイメージと光が回りながら乱反射するイメージが浮かぶ。あれだ、これはミラーボールだ。ダンスフロアでミラーボールが回る意味が直感的にわかってしまって面白かった。

もう一つ気づいたことは「私の理性」に先行する「私自身」たる肉体にどれだけ大きく支配されているかということ。大きな音と光に警戒して身体は自然と固くなり、目は閉じられる。それに気づき身体を極力柔らかくしならせ、光が漏れるくらいうっすらと目を閉じるくらいにすると、より音が総体として身体に染み渡り、音楽がもつ狂騒的な側面がより深く理解できるようになった。ルート音っぽい声をあーーーーーと出してみるとより気持ちいい。大声で叫べたらもっと気持ちいいだろうなと思った。あとは酒か。

身体が恐怖していることや無意識に拒絶していることに意識的でないことは実は多い。自分の身体をもっと理解できれば世界の見え方は変わってくると思う。

上野野音 小山田壮平 中村一義

早稲田大のイベントサークル主催イベント。前半は興味ないので中村一義から参加。はっきり言って中村一義のライブは良くなかった。声が出ておらずギタリストに歌も補助してもらってなんとか体裁を保っている感じ。声が出ないのは知っていたのでそこは察していたが、原曲のリフを聴かせないボサノバっぽいアレンジにがっかり。ステージでの立ち振る舞い、見せ方にも違和感があった。ギターは持たず大げさな身振りやリアクションが目立つ。リアムギャラガーだったらカッコがつくかもしれないが、彼のいけてない雰囲気に絶望的に似合っていない。音源をずっと愛聴してきてセットリストも良かったので歯がゆさが残った。


あまりライブ慣れしていない同行者がいて、私自身のテンションも上がらないままじっとりと時間がすぎる。雨が強くなったなと思っていたらサウンドチェックで小山田壮平が登場。stand by meをやってくれたが、格が違った。歌が素晴らしいし、客との距離感が絶妙。適当に喋るだけなのに安心して演奏を楽しめる空気を一瞬で作ってしまう。

本編の白眉は1984。一つ前のベースマンまでは大学生ノリというか、小山田さんの出身が早稲田ということもあって内輪なわーわーという感じが否めなかったが、小山田さんが1984を歌い出し、一瞬湧いたのち会場は静まり返った。聞こえるのは演奏と雨、そして固唾をのんで聴き入る観衆の沈黙。

安易な一体感ではなくて、同じ音楽を全員が全身で感じながら、でもそれぞれが違う風景を浮かべているような時間がとても心地よい。

それで、これなんだよな、と思った。熱狂を生み出すロックンロールバンドで、一瞬で空間を支配するカリスマシンガーなんだけど、観客を徹底的に一人にさせてしまう感じ。「クラブナイトにおいでよ」って歌いながら、ミラーボールで踊りながら、徹底的に一人でいられる感じ。単純な熱狂は気持ちいいけどとても暴力的だ。小山田壮平は優しい人なんだろうな、と思う。


https://youtu.be/zy1oKWNyoOQ


リハ

Stand by Me


早稲田校歌

16

投げKISSをあげるよ

ゆうちゃん

ウォータースライダー

夕暮れのハイ

あの日の約束通りに

ベースマン

1984

愛してやまない音楽を

革命

サイン


アンコール

グロリアス軽トラ




ちょっとの雨ならがまん 安田潤司

80年代日本のハードコアシーンのドキュメンタリ的作品。正直に言って出演者は町田町蔵町田康)と石井岳龍しか知らなかった。出演者の終演後のインタビュー映像がステージ上での暴力的な振る舞いや喉を悪くするだろうシャウトと対照的で口下手でシニカルな若者と言った感じで面白い。演出はところどころくさい。時代を感じる。

鬱屈してシニカルでインテリにもなれない彼らは叫ぶことしかできなかったのかもしれないが、叫ぶこともできない若者だっているわけで、似たような焦燥感を感じながら俺はなにができるだろうとぼんやり考えた。

ニーチェ入門 竹田青嗣

熱くなる概説書。時系列にニーチェの思想が紹介されており、永遠回帰に辿り着くまでのニーチェの思考の流れが大まかに把握できる。「この人を見よ」や「ツァラトゥストラ」など後期の作品での過剰とも思える言葉や煮詰まり切っていないように思える曖昧な記述に関しては極力ニーチェの意図をくむ読解がされる。いくぶん肩を持ちすぎているのではと思われる箇所も。ツァラトゥストラで繰り返される「身体」の重要性について、ニーチェの健康状態や恋愛事件について知ることで深く理解できたと思う。